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◆明治以前
岩谷堂家具の起源は平泉が栄えていた頃の康和年間(1100年代)、藤原清衡が平泉に居を移すまでの約30年間、豊田館を本拠地とし、産業奨励に力を注いだ時代にさかのぼると伝えられております。もっとも当時は現在のような箪笥ではなく、長持のような大型の箱のようなものだったと考えられています。
その後、江戸時代の中期天明時代(1780年代)に岩谷堂城主、岩城村将が米だけに頼る経済から脱皮しようと、家臣の三品茂左右衛門に、箪笥の製作、塗装の研究、車付きの箪笥を作らせました。その一方、喜兵衛、大吉の二人が鍛冶職となり、さらに文政年間(1820年代前後)には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案しました。鍵のかかる堅牢な金具が用いられるのは、金庫の役目を果たすためでした。最初は桐の模様が多かったようですが、次第に虎に竹、龍、花鳥など多くのデザインが開発されました。これが原型となり、岩谷堂箪笥の技術が現代に引き継がれているのです。
江戸時代、伊達藩の政策により、特産の馬市が振興され多数の他国人が出入りし、他の産物同様岩谷堂箪笥の製作が盛んになりました。 |
◆明治以降
明治になると箪笥もようやく一般家庭に広まってきました。当時の箪笥はそれまでの箱型の長持や整理箪笥から棒桟箪笥に変わり、それとともに岩谷堂箪笥の需要も増大しました。漆塗と飾り金具の美しい岩谷堂箪笥は大評判となり、北上川の下川原港から下って宮城県県北の登米地方に、さらに東北各地に岩谷堂箪笥が出荷されていきました。明治7年には、538本が生産された記録があります。大正の頃からは、重ね箪笥や、上開き箪笥などスタイルも洗練されたものが喜ばれるようになりました。
岩谷堂箪笥は、初め20戸位の業者が個々に製作していましたが、戦争で一時中断したあと、昭和27年に協同組合が生まれ、30年頃は、月産200本まで復活しました。が、その後岩谷堂箪笥生産は洋風家具に押され低迷し、36年に組合は解散しました。
しかし時代に流されることなく、伝統の技術を守っていくことこそが発展の道と確信し、苦しい時代を乗り切りました。昭和40年代初めに東京のデパートでの展示会を契機として、首都圏を中心とする都市生活者の需要を開拓しました。そして再び伝統家具のよさが見直され始め、42年に三品栄氏が中心となり岩谷堂タンス生産組合が組織され、江刺市の6業者が結束して生産を続け、51年4月には盛岡の2業者も参加し、岩谷堂箪笥生産協同組合を結成しました。
さらに昭和57年には厳しい審査を受け、通商産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けることができました。生産量も年々増加し、平成9年に於いては、6118本、7億7千万円に達しました。平成18年9月現在、木工塗装部門4、彫金部門1の5業者でその伝統を守り続けております。
伝統を生かしながら、現代の生活にマッチした岩谷堂箪笥。産地問屋である岩手県産株式会社から全国各地に出荷し、永い伝統に培われた民芸家具として高い評価を受けております。最近ではマンション住まいの方や外国の方にもご用命いただいております。 |
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江戸時代後期の岩谷堂箪笥 |
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